『柳ヶ瀬ブルース』や『さそり座の女』の大ヒットで知られ、「おだまり!」の毒舌でも愛されている歌手の美川憲一さん。
2人の母に育てられたという複雑な生い立ちを本人が語っており、その家族の話が気になる人も多いですよね。
今回は、美川憲一さんの実父と2人の母、養父母との家族構成から、若い頃を過ごした実家までを調査しました。
美川憲一の実父は誰?
美川憲一さんの実父は、東京の神田で会社を経営していた実業家の男性です。
名前や社名は公表されていません。
実母は当時、新橋のダンスホール「フロリダ」で社交ダンスの相手役を務めるダンサーとして働いていました。
結婚を前提にという言葉を信じて交際が始まりましたが、相手には妻と子供がいました。
実母が妻子ある交際相手との間に産んだ子どもで、実父は神田で会社を経営する実業家の男性だった。
引用元: 週刊女性PRIME
実母が妊娠を伝えると実父の態度は変わり、やがて姿を見せなくなったといいます。
実母は生まれて間もない美川憲一さんを抱えて実父の家を訪ね、対応した夫人から逆に頭を下げられたと語られています。
再会は、美川憲一さんが40代の頃でした。
フジテレビ『夜のヒットスタジオ』の対面コーナーに実父が登場し、サプライズで顔を合わせることになったのです。
後日、実父から申し出があり、赤坂の料亭で2人きりで会う機会が設けられました。
「それで(父は)土下座して謝ったのよね」と回顧。
引用元: スポニチアネックス
美川憲一さんはその場で実父を許したものの、育ててくれた養父母や実母の思いを考え、それ以降は一切連絡を取らなかったそうです。
実父が亡くなったあと、異母兄弟にあたる人物から十三回忌の知らせが届きました。
実母は当初拒みましたが、「許すことも大切」と説得され、母子2人で墓参りに向かっています。
恨まないことを信念にしてきた美川憲一さんらしい、静かな向き合い方ですね。
美川憲一の2人の母と生い立ち
美川憲一さんには生みの母と育ての母という2人の母がいて、その2人は姉妹でした。
一人で育てていた実母が肺結核を患ったため、2歳のときに実母の姉夫婦へ引き取られています。
感染を避けるため、治るまで面倒を見てほしいという約束だったそうです。
5歳になった頃に実母が迎えに来ましたが、美川憲一さんは育ての母にしがみついて泣いて嫌がったといいます。
実母はあきらめて姉夫婦に託し、以後は“叔母”として成長を見守る立場を選びました。
真実を知ったのは中学1年生のときで、隣に住む女性から本当の母親は叔母だと聞かされたのがきっかけでした。
幼稚園の運動会で実母がおぶって走ってくれた記憶もあり、大きなショックはなかったと振り返っています。
実母からかけられた「本当ならこの世に出なかった子」「運が強い子」という言葉は、壁にぶつかるたびに支えになってきたそうです。
2人の母を金銭的に不自由させないという思いが、そのまま芸能界を目指す動機になりました。
のちに世田谷区深沢に建てた自宅では母2人と3人で暮らし、自宅で介護もしています。
育ての母は1996年に84歳、生みの母は2006年に86歳で亡くなりました。
姉妹だからこその衝突もあったと笑って語れるのは、やり切った実感があるからなのかもしれませんね。
美川憲一の養父母はどんな人?
美川憲一さんの養父母は、実母の姉とその夫にあたる夫婦です。
子供がいなかったため、引き取ることをとても喜んでくれたと語られています。
養父は書道の先生で、非常に厳格な人でした。
食事中は正座をして一切しゃべってはいけないという決まりがあり、お金がなくても品のある食べ方をすることが家のしきたりだったそうです。
その養父が知人の保証人を引き受けたことで、家は多額の借金を抱えます。
家財道具に差し押さえの紙が貼られた光景は、今も鮮明に覚えているといいます。
気に病んだ養父は脳溢血で倒れ、美川憲一さんが小学校低学年のときに亡くなりました。
残された養母は、昼は保険の外交員、夜は築地の料亭で仲居として働き、借金を返済しながら息子を育て上げます。
「箱入り奥様」と言われていた人の暮らしが、180度変わった形です。
それでも日曜になると半ズボンとハイソックスをはかせて銀座へ連れ出し、良いものを見せてくれたそうです。
着物をきっちり着こなす養母と、洋装がモダンだった実母の2人が、美川憲一さんの美意識の土台になりました。
デビュー後は麻布十番のマンションを養母のために購入し、実母にも住まいを用意して親孝行を実現させています。
苦労を見て育った時間が、そのまま芸への強さに変わったようですね。
美川憲一の家族構成は?兄弟や子供
美川憲一さんの家族構成は、実父・実母・養父母という4人の親に加え、実父側の異母兄弟がいる形になります。
| 続柄 | 分かっていること |
| 実父 | 神田で会社を経営していた実業家。名前は非公表 |
| 実母(生みの母) | 元ダンサー。2006年に86歳で死去 |
| 養父 | 実母の姉の夫。書道の先生。小学校低学年時に死去 |
| 養母(育ての母) | 実母の姉。1996年に84歳で死去 |
| 異母兄弟 | 実父の家庭の子。人数・名前は非公表 |
| 本人 | 独身。子供はいない |
実母と養母が姉妹だったため、家庭の中に母が2人いる形で育ったことになります。
実母の姉夫婦には子供がおらず、美川憲一さんは一人息子として迎えられました。
現在は都心のマンションで一人暮らしをしていて、母のために建てた世田谷の邸宅は2021年に手放しています。
20代の頃には女性と恋愛して結婚や子供を考えた時期もありましたが、父親の役割を求められるのは無理だと判断してやめたと明かしています。
幼い頃から鍵っ子だったため、一人でいることを寂しいと感じたことがないのだそうです。
家族の形は複雑でも、語り口はいつも明るいのが印象的ですね。
美川憲一の若い頃と実家はどこ?
美川憲一さんの実家は、生まれた長野県諏訪市と、2歳から暮らした東京・西新橋の2か所です。
| 項目 | 内容 |
| 本名 | 百瀬 由一(ももせ よしかず) |
| 生年月日 | 1946年5月15日 |
| 出身地 | 長野県諏訪市 |
| 血液型 | A型 |
| 学歴 | 港区立愛宕中学校卒業/正則高等学校中退 |
| デビュー | 1965年『だけどだけどだけど』 |
| 所属 | 株式会社オフィス・ミカワ |
西新橋の家は道路に面したトタン屋根の2階建てで、階段がとても急だったといいます。
隣の駅が虎ノ門という都心でありながら、路地に入ると長屋のような家が連なる下町の空気が残る場所でした。
若い頃の進路は、2人の母を早く楽にさせたいという一点で決まりました。
高校を1年で中退して東宝芸能学校へ通い、1964年には第17期「大映ニューフェイス」に合格します。
翌1965年に歌手へ転向し、青春歌謡路線でデビュー。
1966年の『柳ヶ瀬ブルース』が120万枚の大ヒットとなり、一気にスターへ駆け上がりました。
デビュー当初2万5000円だった月給は1年後に15万円、『釧路の夜』がヒットした年には300万円になったと語られています。
稼いだお金で2人の母には仕事を辞めさせ、生活の面倒をすべて見るようになりました。
1971年には赤坂の高級マンションを購入し、同じ時期に麻布十番のマンションも手に入れています。
「お金のために歌手になった」と本人が言い切る若い頃の必死さが、80歳を迎えた今の存在感につながっているようですね。
まとめ
今回は、美川憲一さんの実父と2人の母、養父母との家族構成から、生い立ちや若い頃を過ごした実家まで調査しました。
- 美川憲一さんの実父は、神田で会社を経営していた実業家の男性です。名前や社名は公表されていません。
- 実母は妻子がいると知らずに交際し、妊娠を告げたあと実父は姿を見せなくなりました。40代の頃『夜のヒットスタジオ』で対面し、後日謝罪を受けています。
- 実母が肺結核を患ったため2歳で実母の姉夫婦に引き取られ、生みの母と育ての母という2人の母のもとで育ちました。
- 養父は厳格な書道の先生で、知人の保証人となって借金を抱えたあと脳溢血で死去。養母は昼夜働いて借金を返し、一人で美川憲一さんを育て上げました。
- 家族構成は実父・実母・養父母と異母兄弟で、本人は独身で子供はいません。育ての母は1996年、生みの母は2006年に見送っています。
- 実家は長野県諏訪市と東京・西新橋で、母を楽にさせるため高校を中退して芸能界入りしました。
複雑な生い立ちを笑って語れるまでに引き受けてきた強さこそ、美川憲一さんの魅力なのかもしれません。
90歳まで歌うという目標に向かう姿を、これからも見守りたいですね。
