宮城県石巻市の産婦人科医で、現在の特別養子縁組制度の成立を後押しした菊田昇さん。
法を犯してでも100人以上の赤ちゃんの命を救った人物として、母親が営む遊郭で過ごした生い立ちが気になる人も増えていますよね。
今回は、菊田昇さんの生い立ちと、妻や息子など子供を含む家族構成まで調査しました。
菊田昇のwikiプロフィールと生い立ち
菊田昇さんは1926年5月31日生まれ、宮城県石巻市出身の産科婦人科医師で、医学博士でもあります。
| 項目 | 内容 |
| 名前 | 菊田 昇(きくた のぼる) |
| 生年月日 | 1926年5月31日 |
| 没年月日 | 1991年8月21日(65歳没) |
| 出身地 | 宮城県石巻市 |
| 出身校 | 東北帝国大学医学部 |
| 職業 | 産科婦人科医師・医学博士 |
| 家族構成 | 妻・静江さんと息子 |
1970年代に「赤ちゃんあっせん事件」(菊田医師事件)と呼ばれる出来事を起こし、「実子特例法」の制定を訴え続けた人物です。
その主張は1987年の特別養子縁組制度の成立につながり、亡くなる4か月前には第2回「世界生命賞」を受賞しました。
第1回の受賞者がマザー・テレサだったことからも、活動が世界的に評価されていたことが伝わってきますね。
菊田昇の生い立ちは遊郭で育った?
菊田昇さんの生い立ちの土台になったのは、母親が石巻で営んでいた遊郭「金亀荘」での日々です。
もともと菊田家は裕福ではなく、母親が借金をして遊郭を買い取ったところから暮らしが変わっていきました。
1926年石巻で四男一女の末っ子として生まれた菊田昇。昇が生まれてまもなく、母ツウは貧しさから抜け出すために借金をして遊郭・金亀荘を買い取った。
引用元: 小学館
石巻は東北有数の港町としてにぎわい、遊郭には貧しい農村から集まってきた遊女が大勢いたといわれています。
作家・石井光太さんの小説『赤ちゃんをわが子として育てる方を求む』では、忙しい母親に代わって幼い昇さんの世話をしたのが、アヤとカヤという遊女の姉妹だったと描かれています。
同じ作品では、闇中絶を受けたカヤが出血多量で亡くなり、その姿が昇さんの進路を決定づけたとされています。
医師を志した背景に、遊郭で見た女性たちの姿があったという点は、多くの関係者が語っているところです。
のちに中絶手術に強い葛藤を抱くようになった原点が、この幼少期にあったのかもしれませんね。
菊田昇の生い立ちと実家の兄弟構成
菊田昇さんの実家は石巻の雑貨商で、姉1人・兄3人の末っ子として生まれ育ちました。
四男一女の5人兄弟という構成で、昇さんはいちばん下の子供にあたります。
父親の名前や職業について、詳しいことは公表されていないようです。
菊田家は子供たちが皆成績優秀だったものの、家計の事情で上の兄姉を進学させられなかったと伝えられています。
母親が遊郭の経営に踏み切ったのは、末っ子の昇さんだけでも大学に行かせたいという思いからだったようです。
自伝的な著書でも、昇さんは自身を「石巻の雑貨商の姉一人、兄三人の末弟」と記しています。
末っ子として家族の期待を一身に背負った生い立ちだったわけですね。
菊田昇の学歴・医師への道
菊田昇さんの学歴は、旧制宮城県石巻中学校から東北帝国大学医学部へと進んだ道のりです。
1944年に東北大学医学専門部へ入学し、卒業後は東北大学医学部附属病院などに勤務しました。
当初は精神科を志望していましたが、最終的に産婦人科を選んでいます。
医師になってからの足取りは、次の通りになります。
| 年 | 主な出来事 |
| 1939年 | 旧制宮城県石巻中学校に入学 |
| 1944年 | 東北大学医学専門部に入学 |
| 1956年 | 東北大学より医学博士の学位を取得 |
| 1957年 | 秋田の市立病院で産婦人科医長を務める |
| 1958年 | 故郷の石巻市で産婦人科医院を開業 |
| 1973年 | 赤ちゃんあっせんを公表し全国で大論争に |
| 1987年 | 特別養子縁組制度が成立 |
| 1991年 | 第2回「世界生命賞」を受賞 |
開業後の昇さんが最も苦しんだのは、当時は妊娠7か月まで認められていた人工妊娠中絶でした。
中絶を望む女性を説得して出産させ、生まれた赤ちゃんを子宝に恵まれない夫婦へ無報酬であっせんする道を選びます。
その際に虚偽の出生証明書を作成したことで、学会を除名され、優生保護法指定医の資格も取り消されました。
不服を訴えた裁判は最高裁で敗訴しましたが、その闘いが制度を動かしたことは間違いありませんね。
菊田昇の妻と子供は息子
菊田昇さんの妻は静江さんで、結婚後は宮城県で家庭を支えてきました。
静江さんはクリスチャンで、昇さんは中絶を認めないキリスト教の教義との間で長く葛藤を抱えていたようです。
子供がキリスト教の幼稚園に通うことに反対した時期もありましたが、がんの手術後に自ら洗礼を受けたいと申し出ています。
子供については息子がいることが明かされており、人数や名前などの詳細は公表されていません。
そのうち長男は医師になり、熊本の「こうのとりのゆりかご」を一人で訪ねたことがあると静江さんが語っています。
息子たちは主人がしたことについて多くを語りませんし、活動も継いでおりませんが、何か思うところがあったのだと思います。
引用元: 日本財団ハッピーゆりかごプロジェクト
昇さんは1986年末に大腸がんと診断され、1991年8月に65歳で亡くなりました。
静江さんはその後も養子縁組の相談を受け続け、「赤ちゃんを救う会」として17年間にわたり活動を続けています。
家族構成としては妻と息子というシンプルな形ですが、その活動は静かに受け継がれていたのですね。
まとめ
今回は、菊田昇さんの生い立ちと、遊郭で過ごした幼少期、実家の兄弟構成、妻や息子など子供を含む家族構成まで調査しました。
- 菊田昇さんは1926年5月31日生まれ、宮城県石巻市出身の産科婦人科医師で医学博士です。1991年8月21日に65歳で亡くなりました。
- 生い立ちの舞台は、母親のツウさんが借金をして買い取った石巻の遊郭「金亀荘」でした。遊女たちの姿を見て育ったことが医師を志す原点になったといわれています。
- 実家は石巻の雑貨商で、姉1人と兄3人の下に生まれた四男一女の末っ子でした。父親の名前や職業は公表されていません。
- 学歴は旧制宮城県石巻中学校から東北帝国大学医学部へ進み、1956年に医学博士を取得。1958年に石巻市で産婦人科医院を開業しました。
- 家族構成は妻・静江さんと息子で、長男は医師になっています。子供の人数や名前は公表されていません。
- 1973年の赤ちゃんあっせん公表から14年後に特別養子縁組制度が成立し、1991年には第2回「世界生命賞」を受賞しました。
法律よりも小さな命を優先した一人の医師の選択が、今も多くの家族の形を支えていると思うと胸が熱くなりますね。
